2009年06月16日

哺乳類のひげ(ひげ)は、正確には「洞毛」と呼ぶ

哺乳類のひげ(ひげ)は、正確には「洞毛」と呼ぶ。ネコのひげは毛根部分に感覚神経や血管が密に分布しており、非常に鋭敏で、先端に何かが少し触れても感じ取れる。口の周りだけでなく、眼の上、顔の横にもあり、それらの先端を結ぶと顔を一周する大きな円になり、これで狭い通路を通り抜け得るか否かを判断できるので、獲物の追跡、敵からの逃走に重要な役割を果たす(ただし、一部に否定説あり)。顔以外では、前脚の関節付近の裏側にも生えている。長さは若いほど長く、歳をとったものほど短い。ひげは生え変わるが、無理矢理抜くと酷い場合はストレスで死んでしまうこともある。

襟首(えり-くび)と呼ばれる頸(首)の後ろの皮膜は痛点が鈍化しており、親猫が子猫を運ぶときここをくわえる。この特徴は成猫になっても残るため、成猫でもヒトがここをつかんで持ち上げることができる。持ち上げなくとも襟頸を掴むだけでおとなしくなる傾向があるため、気性の荒い猫や野良猫を扱う際に有効である。
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母猫が子猫の襟首をくわえて持ち運ぶことがあるが、これはくわえても子猫に悪影響のない場所を母猫は本能的に知っているからできることであり、人間はその場所を知らないため、むやみに襟首を掴んで持ち上げると猫の頸を絞めてしまうことになりかねない。また、筋肉に悪い影響を与えるという説もあるので、襟首だけ掴んで成猫を持ち上げることは避けるほうがよい。

2009年05月30日

材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き

弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている (ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。

北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。 一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。 瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。

弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたとことが想定されている。

土器は、弥生土器と呼ばれる、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。 縄文時代の縄文土器と比べて装飾が少ないとしばしばいわれるが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。 器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。
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土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構はほとんど事例がない。 最近、土器の焼成失敗品や、強い熱を受けたために器壁が薄くはじけるように割れた土器に注目して、大規模な集落で土器が集中的に生産された可能性が提起された。 また、土器の形態は地域性をきわめてよく表すため、その特徴に着目して他地域から搬入された可能性の高い土器と在地の土器とを峻別し、土器はこれまで思われていたよりもずっと多量に移動している可能性が指摘されている。

木器は主に食膳具や耕起具として使われた。特に食膳具には漆を塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれであり、詳しいことは未だよくわかっていない。

2009年04月27日

ISSの電力源は

ISSの電力源は、太陽光を電気に変換する太陽電池である。組立フライト4A(2000年11月30日のSTS-97)以前は、ザーリャとズヴェズダに装備されたロシアの太陽電池が唯一の電源だった。ISSのロシアの部分は、28ボルトの直流電力を使用する(シャトルと同じ)。ISSの他の部分には、トラスに設置された太陽電池から、130?180ボルトの直流電力が供給される。電力は直流160ボルトに安定化されて分配され、さらにユーザーが必要とする124ボルトの直流に変換される。電力はコンバータによってISSの2つのセグメントに分配される。ロシアの科学電力プラットフォームがキャンセルされ、ロシア区画もアメリカが設置した太陽電池の電力供給に依存することになったため、この電力分配機構は重要である。

ISSのアメリカ区画では、高圧(130?160ボルト)配電線を使うことで、電線をより小さくし、軽量化することができた。

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太陽電池パドルは、太陽エネルギーを最大にするために、常に太陽を追尾する。パドルは、面積375平方メートル、長さ58メートル。完全に完成した構成では、太陽電池パドルはアルファジンバルを回転させることによって、各々の軌道で太陽を追跡する。ベータジンバルは軌道面と太陽の角度に合わせて調整される。

しかし、主要なトラス構造が打ち上げられるまで、パドルは最終的な設置場所とは垂直な位置に仮設置された。この構成では、右の写真で示すように、太陽追尾には主としてベータジンバルが使われた。「夜のグライダー」モードと呼ばれる別のわずかに異なる追跡方法では、わずかに太陽電池パドルを進行方向に向けて調整することで、空気抵抗を減らすことができる。

2009年04月11日

太陽系外惑星

太陽系外惑星(たいようけいがいわくせい)とは、太陽系にとっての系外惑星、つまり、太陽系の外にある惑星である。

多くは(太陽以外の)恒星の周りを公転するが、白色矮星(パルサー)や褐色矮星を周るものも見つかっており、他にもさまざまな星を周るものが想定される。浮遊惑星(いかなる天体も周らない惑星大の天体)を惑星に含めるかどうかは議論があるが、発見法が異なることなどから、系外惑星についての話題の中では浮遊惑星は別扱いすることが多い。

SF作品、なかでもスペースオペラで頻繁に題材として取り上げられてきたものの、観測能力の限界から実際に発見されずにきたが、1990年代以降、多くの系外惑星が実際に発見されている。

太陽系以外にも系外惑星が存在するのではないかという考えは探査の始まる以前よりあり、16世紀にはジョルダーノ・ブルーノが、太陽も恒星のひとつであり、他の恒星も太陽系のような世界があるという説を唱えたが、これは科学的というよりは彼の信仰、宗教的世界観によるところが大きい。20世紀には太陽以外の恒星も惑星を持っているだろうということは常識として考えられるようになったが、長らく実証されず、専らフィクションの世界でのことだった。

探査の試みがなされるようになるのは、1940年代からである。1960年代にはバーナード星に惑星があるとされ、きわめて有力視されたが、この報告は現在では否定されている。

現在認められている初の発見例とされているのは、1993年に発見されたPSR B1257+12というパルサーをめぐる3つの惑星である。ポーランドの天文家、アレクサンデル・ヴォルシュチャンによって発見された。

1995年10月6日、ジュネーブ天文台のミシェル・マイヨールとディディエル・クエロッツにより、ペガスス座51番星 (51 Pegasi) という恒星に木星クラスの質量を持った惑星の存在が確認された。主系列星ではこれが初めての系外惑星とされている。最初に発見された系外惑星は、中心の恒星から0.05天文単位で水星軌道よりも遙かに内側に入り込んだ木星型惑星という異様な惑星であり、太陽系と類似した配置であろうというそれまでの常識を打ち砕いた。この種の惑星は、太陽に極めて近いことから「ホット・ジュピター」(熱い木星)と呼ばれ、これを機に続々と同種の系外惑星が発見されている。これは後述のように、主に惑星の重力によって恒星がふらつくことを利用して観測しているため、恒星に及ぼす重力が強く、ふらつきの周期が短い惑星、つまり木星級の大きさで恒星のすぐ近くを回る惑星でなければ、地球から観測することは非常に困難ということによる。観測精度の向上と長期にわたる観測データの蓄積により、この状況は改善されていくと思われる。

様々な太陽系外惑星 [編集]
2008年9月19日までに266の惑星系(パルサー含む)に310の惑星が発見されている。そのほとんどはホット・ジュピターやエキセントリック・プラネット(離心率の大きな楕円軌道を描く惑星)であり、太陽系の木星や土星のような、主星から離れた位置で真円に近い軌道を周っている惑星は少ない。

恒星の惑星については、当初は木星質量の数分の一以下の天体は検出できなかったが、その後天王星や海王星クラスの惑星も見つかり始めている。これらのうち恒星の近くを周るものはホット・ネプチューンと呼ばれる。地球クラスの惑星はまだ発見されていない。これまでに発見された恒星の惑星のうち、最も質量が小さいのはグリーゼ581c(地球の5倍程度)で、スーパーアース(巨大地球型惑星)ではないかと考えられている。パルサーPSR B1257+12の惑星はこれより小さく、最も内側のPSR B1257+12aは月の2倍程度の質量しかない(冥王星の5分の1程度の質量を持つ彗星か小惑星らしきものもあると言われている)。

大きい方では、質量が木星の10倍もあるような超巨大惑星も見つかっている。これより大きな天体としては褐色矮星があるが、質量分布からは惑星と褐色矮星の間に明確な溝が認められる。

太陽系外惑星の観測方法 [編集]

直接観測 [編集]
直接観測は、文字通り望遠鏡で系外惑星を直接観測することである。実際には中心となる恒星と惑星の距離が非常に近く、また恒星に比べ惑星が非常に暗いため、惑星からの光を恒星の光と分離することは非常に困難とされている。しかし直接観測のための研究は世界中で行われている。

恒星ではないが、褐色矮星である2M1207という天体には、55AU(あるいはそれ以上)の距離に惑星サイズの天体が発見されており、2M1207の伴星ではないかと言われている。この天体は赤外線で直接観測されている。

2005年3月22日、ハーバード・スミソニアン天体物理センターと、NASAのゴダード宇宙飛行センターの研究者らが、こと座にあるTrES-1と、ペガスス座にあるHD 209458bの2つの系外惑星の直接観測に成功した、と報道された。これは、惑星が恒星の裏側にあるときとそれ以外の差を取り、惑星の赤外線輻射を恒星光から分離するという方法であり、厳密な意味での直接観測ではない。

2005年4月、ヨーロッパ南天天文台で、おおかみ座にあるおおかみ座GQ星 (GQ Lupi) という恒星にある惑星候補天体の撮影に成功した。この惑星候補天体の質量は木星の1倍から42倍と見積もられており、褐色矮星の可能性もある。したがってこの観測も、現時点では惑星の直接観測とはいえない。

2007年5月、スピッツァー宇宙望遠鏡によってこぎつね座にあるHD 189733の惑星 (HD 189733 b) の表面の温度分布図が作成された。これは直接観測ではないが、系外惑星の表面の場所による状態の違いを初めて検出したものである。

2008年9月15日にハワイのジェミニ天文台より、太陽系から500光年離れたさそり座近辺の恒星1RXS J160929.1-210524にある惑星の撮影に成功したと発表があった。別の目的で撮影した物に偶然、惑星が写っていた。撮影できた詳しい要因は現在調査中だが、まだ誕生して間もない恒星と惑星のため、惑星の表面温度が高く発光している点と、距離が大きくはなれている事(約330天文単位)が要因として考えられている。

さらに同年11月にはハッブル宇宙望遠鏡がみなみのうお座の1等星フォーマルハウトで惑星の可視光撮影に成功と発表された。過去に撮影された画像を比較することで宙域を移動する光点がみつかり、軌道計算の結果、フォーマルハウトの周囲を公転する天体と確認された。また恒星を取り巻くダストリングの分布などから天体の最高質量が木星の3倍以下であることも判明し、史上初めて名実ともに直接観測で確認された太陽系外惑星となった。 この惑星は115天文単位の遠距離を872年かけて公転している。また惑星の反射が距離やフォマルハウトの光度と比較して明るすぎるため、土星のような巨大リングによって光が拡散していると推定されている。

以後、次々と直接観測の報告がされるようになった。

位置天文学法 [編集]
位置天文学法 (Astrometry) は、木星のような巨大な惑星によって恒星がふらつく様子を位置天文学的手法により精密観測し、それによって惑星の存在を確かめる方法である。連星の不可視伴星の発見に用いられるのと同じ手法である。1943年以降の初期の系外惑星探査に用いられたが、大きな成果をあげることはなかったが、従来にない高精度の位置天文学観測が可能になった現在、この方法によっても系外惑星が発見できるのではないかと期待されている。

視線速度法 [編集]
視線速度法は、ドップラー偏移法とも呼ばれ、惑星によって恒星が視線方向にふらついた時に起こるドップラー効果によるスペクトル変化を調べることで系外惑星を探す方法である。基本的には分光連星を発見する手法と同じものである。ベレロフォン (51 Pegasi b) をはじめ、多くの惑星がこの方法によって発見された。

食検出法
食検出法はトランジット法とも呼ばれ、惑星が恒星の前を横切る時の明るさの変化によって惑星を探す方法である。星食や食変光星の観測と同じ原理である。地球から見て惑星が恒星面を通過する確率は非常に小さいと考えられるため、実在する惑星に対しこの方法によって発見できる惑星の割合は小さいものの、比較的安価な機材でも観測可能であり、アマチュアにも手が届くという利点がある。

ドップラー偏移法など、他の手段で発見された惑星をトランジット法で確認するということも行われている。恒星のふらつきを捕らえる方法では、惑星の公転面と視線方向のなす角度が分からないため、質量は考えうる最小の値しか求めることができない。しかし恒星面通過が観測された惑星は視線方向とのなす角が分かるため、惑星の質量を厳密に求めることができる。また異なる手段で惑星を検出することにより、その惑星の存在がより確かなことになるという意味でも、意義深い。

惑星が恒星面を通過する際に恒星の光の一部が惑星の大気を通過するため、惑星大気の成分を探る方法としても期待されている。実際この方法によりオシリス (HD 209458b) という惑星の大気に酸素と炭素が存在していることが確認された。

人工衛星による観測も行なわれている。2006年12月27日、欧州宇宙機関は太陽系外惑星探査衛星COROTを打ち上げた。食検出法を用いた地球の数倍までの地球型惑星の発見が目的である。 同様の衛星をアメリカ航空宇宙局もケプラーを2009年3月6日に打ち上げた。

重力レンズ効果を用いる方法 [編集]
重力レンズ効果とは、遠くの天体から発せられた光が手前にある天体の重力により集められ、実際より明るく見えることである。手前にある天体が惑星を持つ場合と持たない場合では、遠くの天体の光度変化が異なることが理論的に予測されている。この現象を利用して系外惑星を発見することが可能であり、PLAN、OGLE、MOAのチームがOGLE-2005-BLG-390Lbを発見している。

パルサー・タイミング法 [編集]
パルサーとは、周期的にパルス状の電磁波を出す天体である。パルスの原因はパルサーの自転によるものと考えられている。パルサーに惑星が存在する場合、パルスに周期的なズレが観測される。このズレから惑星を間接的に観測する方法がパルサー・タイミング法である。公式な記録上、最初に発見された系外惑星であるPSR B1257+12の惑星系などは、この方法で発見された。

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2009年03月27日

下着フェティシズム

下着フェティシズム(したぎ-)とは、フェティシズム的服装倒錯症(Fetishistic transvestism)の一種に分類されるフェティシズム。特に下着に、強い関心を示して執着したり興奮したりする傾向や、そのような傾向を有する人を指す。俗語としては下着フェチという言葉も用いられる。

もともとフェチとは、フェティシズムを略した俗語であり、その意味も使われ方によって大きく揺らぎがある。また対象者の傾向によりひとくくりにはできない概念を包括していることが多く、その解釈も多様である。ごく狭義には下着もしくは下着姿に強い性的興奮や執着をおぼえる傾向をさす。

下着の概念 [編集]
ブラジャー、パンティー(ショーツ)、ブリーフ、ふんどしといった身体に密着した下着が一般的である。反面腰巻やババシャツといった性的魅力に乏しいものへの執着は一般的ではない。同じ洋風であってもコルセットやガードルといった矯正下着に類するものへの執着は別の性的倒錯に分類される傾向にある。

精神医学的な解釈 [編集]
アメリカ精神医学会の定めた『精神障害の診断と統計の手引き』(以下DSM-IV-TR)をもとにすれば、

少なくとも6カ月間にわたり、女性などの下着に関わる強烈な性的に興奮する妄想、性的衝動、または行動がくりかえしおこる。
その妄想、性的衝動、または行動によって著しい苦痛、または社会的、職業的な障害がおきている。
の二つを満たすことで下着に関わるパラフィリア(偏愛)とみなすことが出来る、とされている。

一般的な解釈 [編集]
いわゆる下着泥棒やブルセラショップユーザーのように、異性愛者(ヘテロ)が異性の下着を入手し自慰などの性的な用途に用いる傾向を下着フェチと解釈することがごく一般的である。ただし下着泥棒の中には下着収集癖とも言うべき、多くの下着を集めることに満足する者も存在している。自慰などの性行為を伴わない場合であっても、精神医学的にはフェティシズム的服装倒錯症に分類が可能である(上記参照)。

着用する場合 [編集]
異性愛者(ヘテロ)であるにも関わらず、異性の下着を着用することで性的興奮を得て、他の性行為に興味を示さない、あるいは著しく関心が低い傾向をさす。女装癖との境界は曖昧だが、女装癖、もしくは性同一性障害の場合は異性愛傾向が弱くなるので、その部分で分類することが多い。

着用させる場合 [編集]
性行為において相手に下着を着用させて行為に及ぶことが非常に多く、裸での性行為に興味を示さない、あるいは著しく関心が低い傾向をさす。これに関しては成人向け雑誌のグラビアやヌード写真集でも用いられる手法であり、これによって興奮することそのものは一概にフェティシズム的服装倒錯症とは呼べないが、長期にわたり続き、行動が顕著なものは可能性を有している。

同性愛者の場合 [編集]
同性愛そのものが社会的にタブー視されているために、代償行為との区別が曖昧である。同性の下着にのみ著しい関心を示し同性との性愛行為そのものに著しく興味・関心が低い場合は該当すると言える。

該当しない傾向 [編集]
フェチという俗語が非常にあいまいな解釈のために、日常使われている言葉にも多くの齟齬が生じている。フェチ=フェティシストと解釈するならばかなり強固な行動の固着を意味するが、近年は「好み・好き」程度の軽い解釈となっており、単なる下着着用姿への興奮すらフェチにされてしまう傾向にある。

下着着用者への性的興味 [編集]
異性愛者で、異性の下着姿に性的興奮をおぼえることはごく一般的な反応である。それが固着せず長期にわたらないものは厳密にはフェティシズム的服装倒錯症とは言えない。夏季に薄着になった女性の下着に性的興奮を覚えても、それは一般的な反応でありフェティシズムと言うほどではない。またスカートの奥の下着を見たい、という欲求は穿視症に分類される別の性的倒錯である可能性や、単なる性的興味の延長である可能性が高い。

代償行為 [編集]
異性愛、同性愛に関わらず思慕を抱く相手との性愛行為がかなわない場合に、衣類や下着といった、相手を感じさせるものを代替として性愛行為におよぶ場合がある。この場合はあくまでも性愛行為の相手の代償として、性行為を強くイメージさせる下着を選択するため、フェティシズムに分類されない。それが固着し、性愛行為に興味関心を失った場合はフェティシズムに分類されることもある。 また幼児性愛(ペドフィリア)の代償として女児用下着への固着など、タブー視されている性愛の代償も見られる。

デザイン・美的な興味 [編集]
華やかなデザインや色、素材の手触りなど衣類の延長としての下着への興味は、女性を中心にごく一般的な傾向でありファッションの一部となっているため下着フェチと呼ぶにはふさわしくない。
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ

経済的な興味 [編集]
ブルセラショップなどで下着を商品として扱う場合の興味・関心は下着フェチには分類されない。

下着への関心か、性行為への関心か [編集]
基本的には下着という性器を包む衣類への関心は、性行為への関心の段階的な部分とも解釈可能である。特に性行為を経験していないあるいは性的発達の未熟な若年層にとっては、下着への興味はそのまま性行為への興味と直結しやすい。フェティシズム的服装倒錯症ならば、目の前の女性を裸にしたうえで性行為には及ばす、脱がせた下着を用いた自慰を行いたいというほどの極端な性衝動が生じるべきであり、脱がせた下着よりも性行為を選択する傾向にある場合は(それ以前に下着による自慰を行っていたとしても)フェティシズム的服装倒錯症には分類されない。

洗った下着か、汚れた下着か [編集]
綺麗に洗濯された下着であっても満足する場合と性器を由来とする汚れに対する興奮とは似て非なるものと解釈可能である。例えば性器を由来とする汚れた下着に興奮する傾向は、多くの場合延長上に性行為を連想させ、性的興奮が高まることに何の疑問も生じない。もしその傾向を持つ者がハンカチやスカーフなど性をイメージさせない布製品に膣分泌液などが付着したものをも性的興奮の対象とし、通常の性行為に著しく興味関心を示さない場合が続いた場合はフェティシズムに分類可能と言えるが、汚れに関する性的興奮が、汚物であることに由来するならばそれはスカトロジーもしくは汚物愛好的フェティシズムに分類される。

下着の入手方法による区別 [編集]
下着泥棒に代表される、窃盗による入手は、入手することに興味が引かれている場合もあり何らかの代償行為と見なされる場合がある。また暴力的な手段で着用している異性から下着を剥ぎ取り奪う行為は、脱ぎたての下着に強い執着がある場合が多いが、下着を異性から直接入手する行為への固着がある場合もある。

ブルセラショップ等の店舗で購入する場合には、店員とのやりとりの中で虚栄心が発生する場合もあり、よりマニアックな傾向へと偏りが見られることもある。一方、購入時に店員とのやりとりをせずに済む為、自動販売機で買う者もいる。

2009年03月11日

ウェストミンスター宮殿

ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)は、英国ロンドンの中心部テムズ川河畔に存在する宮殿。現在英国議会が議事堂として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)と共にロンドンを代表する景色として挙げられる。所在地はロンドンのミルバンク。なお近隣のテムズハウスがイギリス情報局保安部である。

ウェストミンスター宮殿のおかれているテムズ川河畔は中世を通して戦略上の要衝であった。すくなくともアングロ・サクソンの時代には既にこの地に何らかの建物が建設されていた。ソーニー・アイランドとして知られるイングランド中世にはカヌート王によって初めて宮殿として用いられるようになり、サクソン王朝の最後から2代前の王エドワード懺悔王はシティ・オブ・ロンドンの西、ソーニー・アイランドに宮殿とウェストミンスター寺院を建設した。時代が下るとこの周辺の地区はウェストミンスター(Westminster) と呼称されるようになった。これは西方の修道院 (West Monastery) の省略形であると考えられている。1066年のノルマン・コンクエスト時にはウィリアム1世は一時ロンドン塔を自身の住居として定めたが、後にウェストミンスターへと移っている。これらサクソンやウィリアム1世により使用された建築物は現在残っていない。宮殿における最古の部分は次代のウィリアム2世により建造されたものである。
キャリ プラス 百目柿 コロッケ ピロー ビリア ブルース プレイパ ライブ 二輪草 タイム ミルク とまぴ こげちゃ だいせん おおば ダブル ネービ ヨハネ ほろば リル アイアール カレンシー がいせい ハイピッ にがうり トラップ フィス マロニ 紅い橋 プロイ みぎわ フォト モールド パンク メーク トリオ カバラ ライチー ハラム ギキョウ ナビリネン げきけい ブタノール スワン ナレッジ コクシ ディン トルコ マグレブ

中世後期をとおしてウェストミンスター宮殿は王の住居であり続けた。イングランド政府が成立すると、公共施設の多くはウェストミンスター周辺に建設されている。議会の前身であるキュリア・レジス(Curia Regis, 枢密院)はウェストミンスター・ホールに設けられた。1295年に設立された初めてのイングランド議会である模範議会も宮殿内で開催されている。このようにほぼ全ての議会は王の居住する宮殿内で開催されたが、何らかの理由により他の場所に設けられたことが数例ある。

1529年の大火が発生するまでウェストミンスターは王の宮殿として機能していた。1530年にヘンリー8世はヨーク宮殿をトマス・ウルジー枢機卿から手に入れ、ホワイトホール宮殿と改名して自身の宮殿として使用した。公にはウェストミンスター宮殿が住居であったが、実際には二つの議会および裁判所として利用されていた。本来宮殿であったウエストミンスター宮殿には議会としての利用に適した部屋が存在しなかった。議会の開会式など重要な国事行事はPainted Chamberで執り行われた。貴族院はホワイト・チャンバーで、庶民院については固定した開催場所が存在せず、時にはウェストミンスター寺院のチャプター・ハウスで開催されている。その後宮殿内の聖ステファン教会が議場とされたがこれはエドワード6世統治下のみに終わった。

1834年10月16日に発生した火災によって宮殿の大半は焼失した。ウェストミンスター・ホールおよびジュエル・タワー、聖ステファン教会の地下室、回廊のみが焼失を免れた。宮殿の再建を協議する王立の委員会が設けられ、ゴシックまたは古典様式のいずれかのデザインで建設することを決定した。古典様式を好む人々はゴシックの粗野さは議事堂に似合わないと主張したが、キリスト教に基づいており好ましいとするオーガスタス・ピュージンを含む一派の計画が採用された。

1836年に委員会は97の計画案の中からチャールズ・バリーの設計したゴシック様式のデザインを採用した。1840年に礎石が据えられ、貴族院議事堂は1847年に、庶民院議事堂は1852年に完成した。その後建物の主要部分は1860年に完成した。

ウェストミンスター宮殿は1941年まで利用され続けていたが、この年にドイツ軍の爆撃によって庶民院が破壊された。ジャイルズ・ギルバート・スコットの設計によって元のサー・チャールズ・バリーの設計を残して1950年に完成した。

構造
石と鋳鉄

敷地:30,000?
幅:280m
高さ(時計塔):96m

2009年02月23日

ナイル・サハラ語族

ナイル・サハラ語族はアフリカのナイル川、シャリ川の上流の地域(ヌビアも含む)に分布する語族。話者は言語学者メリット・ルーレンの1987年の調査によると1100万人とされる。どの言語が語族に含まれるかについては異論があり、特にソンガイ語について意見が分かれている。ジョーゼフ・グリーンバーグの説(著書The Languages of Africa)によると語派は以下のようになる。
恋人の色 ビーチ オーデコ ダチョウ 夢の恋路 ドゥーム プライマー ばんどう エブロ 黄昏ワル てっぷ フォロ フィラ チジン やはぎ ファイ ルソー フレンド アンラ イーシ フォークタ すずりいし らいち 夢待人 四季彩 日本の島々 真珠 デレヨイ ツーリスト オブソリ トーキ きがん サガ スクアレ スイムタル オーバル タージ ヒュッテ ミニホ ラーキー オービス スカフェ タイム イメージ ロボール 愛の ロンドン スターム ライブラリー マゼラ

コムズ語派
サハラ語派 (カヌリ語を含む)
ソンガイ語派
フル語
マバン語
(シャリ・ナイル語) - 後に否定され,以下の 四派に分割された
中央スーダン語派
クナマ語
ベルタ語派
東スーダン語派 ( ヌビア語 と ナイル語を含む)
エスノローグ(Ethnologue)、アンベッサ・テフェラ(Anbessa Tefera)、ペーター・ウンゼト(Peter Unseth)はシャボ語も含まれるとしたが採用されなかった。後にクリストファー・エーレト(Christopher Ehret)が周囲に同族の言語がない孤立した言語であるという説を立てた。

カドゥ語はグリーンバーグを踏襲してコルドファン語に含まれるとする説、ロガー・ブレンチ(Roger Blench)などのナイル・サハラ語族に含まれるとする説、エーレトなどの孤立した言語とする説がある。標準の分類ではニジェール・コンゴ語族とされるマンデ語もソンガイ語との類似からナイル・サハラ語族に含まれるとする説が出ている。

古代クシュ国のメロエ語も含まれるのではないかという説があるが情報が少なすぎて決定には至っていない。また同様に最近まで母語話者のいたウガンダのオロポム語がクリアク語やナイル語と同系ではないかといわれることがある。

さらにニジェール・コンゴ語族との関係が取り沙汰されることもある。エドガー・グレゲルセン(Edgar Gregersen ,1972) が両者を合併してコンゴ・サハラ語族を立てたり、上記のブレンチ(1995)がニジェール・コンゴ語をナイル・サハラ語族(中央スーダン語派)に編入する案を出したりしているが、保留の態度が主流である。

ベンダー 1997年
リオネル・ベンダー 以下のように分類している。(1989年のものをわずかに変更)

ソンガイ語
サハラ語
クリアク語
中央部と周辺部
マバン語
フル語
ベルタ語
クナマ語
中央ナイル・サハラ語
東スーダン語
中央スーダン語
コムズ語
カドゥ語

エーレト 2001年
エーレトの分類ではベンダーよりも細かくなっている。

コマン語
スーダン語
中央スーダン語
北スーダン語
クナマ語
サハラ・サヘル語
サハラ語
サヘル語
フル語
トランス・サヘル語
西サヘル語
ソンガイ語
マバン語
東サヘル語
アスタボラン語
ナラ語(バレア語)
西アスタボラン語
ヌビア語
タマン語
キル・アッバイアン語
イェベル語
東イェベル語(=タビ語)
ベルタ語
キル語
ヌバ山語 (=テメイン語,ニマング語を含む)
ダユ語
スルマ・ナイル語
スルマ語
ナイル語
ルブ語 (=クリアク語、テウソ語)

2009年02月07日

足利直義・足利直冬

足利 直義(あしかが ただよし)は、南北朝時代の武将である。室町幕府初代将軍、足利尊氏の同母弟
プロセス 波止場 バギオ トーク さくらがす スクー ジャーナ ミルク ライザー ラオス トレン バンドル ブランデー パラメー ダスト レンダム ハイエ フレー ロピウム スクール テンプレ ツルグミ ネーミング マーシ チョッピー ダッチ キャン タイル フレーム ひとり ときいろ ストイック ネット フィライト ダイヤ キセル バインダー 茗荷SE モル ピカタ ビリヤ モンテネグ レーガン 雪鏡 バニラエッ ニシキ イイギ トリスナー マーカ マルトー

当初、鎌倉幕府執権北条高時より一字を受け高国と名乗るが、後に忠義に改め、さらに直義に改名する。1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、兄の尊氏とともにこれに味方し六波羅探題攻めに参加する。

建武の新政では左馬頭に任じられ、鎌倉府将軍成良親王を奉じて鎌倉にて執権となり、後の鎌倉府の基礎を築く。1335年(建武2年)、中先代の乱が起こり、高時の遺児北条時行が信濃国に挙兵し関東へ向かうと、武蔵国井出沢(現東京都町田市)にて反乱軍を迎撃するが敗れる。反乱軍が鎌倉へ迫ると、幽閉されていた護良親王を混乱の中で殺害し、三河国矢作(愛知県岡崎市)へと逃れた。

同年、天皇に無断で来援した尊氏と合流して東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から鎌倉を奪還する。奪還後も鎌倉に留まった尊氏は、付き従った将士に独自に論功行賞などを行うが、これは直義の強い意向が反映されたとされている。しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞を大将軍とする追討軍が派遣されるや、尊氏は赦免を求めて隠棲する。直義らは駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)で義貞を迎撃するが敗北する。これに危機感を持った尊氏が出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下で追討軍を破って京都へ進撃する。足利軍は入京したものの、翌1336年(建武3年)陸奥国から上洛した北畠顕家や楠木正成、新田によって京都市街戦に敗れ、再入京を目指すも摂津国豊島河原に敗れて九州へ走る。道中の備後国にて光厳上皇の院宣を得て、多々良浜の戦いで建武政権側の菊池武敏に苦戦を強いられながらもこれを破るなど、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直して東上を開始。海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で新田・楠木軍を破って再び入京する。

二頭政治から観応の擾乱へ
尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定して幕府を成立させるが、式目の制定には直義の意向が強いとされる。1338年(延元3年/暦応元年)に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。しかし、1348年(正平3年/貞和4年)頃から足利家執事の高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派の二つに割る観応の擾乱に発展し、南朝も混乱に乗じて勢力を強める。尊氏が師直の執事職を解任すると、1349年(正平4年/貞和5年)に師直とその兄弟の高師泰は直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸を大軍をもって包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。

翌1350年(正平5年/観応元年)、尊氏らが養子足利直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に乗じて京都を脱出、師直討伐を掲げて南朝へ降る。一方、北朝は直義追討令を出す。南朝に属した直義は尊氏勢を圧倒し、1351年(正平6年/観応2年)に播磨国光明寺城(光明寺合戦)や摂津国打出浜で尊氏方を破る。尊氏方の高兄弟とその一族は、直義派の上杉能憲に殺害される。

高兄弟を排除した後、尊氏の嫡子足利義詮の補佐として政務に復帰する。これに対して尊氏・義詮は出陣と称して南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令が出る。直義は京都を脱して北陸、信濃を経、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合した。しかし、駿河国薩埵山(「埵」は「土へん」に「垂」、静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで尊氏に連破され、鎌倉にて武装解除される。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、翌1352年(正平7年/文和元年)2月26日に急死する。病死とされているが、『太平記』のみは尊氏による毒殺であると記している。直義が没した日は奇しくも高兄弟の一周忌に当たる。

なお、尊氏はその死の直前の延文3年/正平13年(1358年)に、故直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出ている。

人物
一説によれば、古典「太平記」の祖形となった史書の誤りを訂正させた話なども伝えられる。禅僧の夢窓疎石にも帰依していた。
1歳違いの同母弟ということもあり、元々尊氏と直義の兄弟仲はすこぶる良く、尊氏は直義に絶大な信頼を寄せていた。特に幕府開設以降、尊氏は自身はシンボル的な地位にとどめ、実際の政務はほとんど直義に委任していたと言われる。「今生の果報をば直義にたばせ給候て、直義安穏にまもらせ給候べく候」という尊氏の願文が石清水八幡宮に奉納されている。しかし、尊氏に軍事指揮権を温存した二頭政治は必然的に幕府内に派閥を発生させ、それが観応の擾乱という悲劇を生むことになった。
兄・尊氏が感情の起伏を持っていた(朝敵となったことを恥じて戦いを離れ一時出家したりしている)人物とされているのに対し、冷静沈着であったとされ、要所で兄を支えている。足利氏の天下取りに不可欠な人物だったと言える。
兄・尊氏が山のように贈られてきた品物を部下たちにすべて分け与えたほど無欲だったというエピソードは有名であるが、直義はそもそもそういう贈り物を受け取ること自体嫌った、と言われている。
数々の武功を立てた土岐頼遠が、光厳上皇に狼藉を働いて捕らえられた際、頼遠の軍才や数々の武功を惜しんで助命を嘆願する声が上がり続けても、朝廷の権威を重んじる直義は断固として耳を貸さず、頼遠を斬首した。光厳上皇の権威を否定することは、上皇から征夷大将軍を与えられた尊氏、そして室町幕府の権威をも否定することになりかねず、情に流されず、冷徹な判断によるものであった。もっとも、一方では頼遠の武功に免じて、土岐家そのものはとりつぶしはせず、甥に継がせて存続させている。
観応の擾乱において兄・尊氏と対立した後も、室町幕府の正統性を擁護し続けた。直義と南朝との和議交渉を記録した「吉野御事書案」(『群書類従』所収)において、直義勝利の暁には室町幕府は北朝の解体と大政奉還をすべきであると要求する南朝側に対して、直義は実際に天下の秩序を守っているのは室町幕府を筆頭とした武士であり、南朝こそその要求に従って無条件で京都に帰還すべきであると論じた。このため、両者の和議後も相互不信は続いた。その後、尊氏は南朝に対して和議交渉を行ったときには現実的な課題である直義討伐を優先して南朝側の要求を全面的に受け入れて「降伏」し、南朝も尊氏と結んで直義討伐を命じた。皮肉にも幕府の正統性を守ろうとした直義は、それ故に当の幕府将軍である尊氏との外交戦争に敗れることになり、諸国の武士からは勿論、大高重成のような側近からも離反される結果を招いた。

官職位階履歴
※日付=旧暦

嘉暦元年(1326年)5月26日、従五位下に叙し、兵部少輔に任官。

元弘3年/正慶2年(1333年)6月12日、左馬頭に転任。 10月10日、正五位下に昇叙。左馬頭如元。  11月8日、相模守に遷任。

建武元年(1334年)7月9日、従四位下に昇叙。相模守如元。

暦応元年/延元4年(1338年)8月11日、従四位上に昇叙し、左兵衛督に転任。

康永3年/興国5年(1344年)9月23日、従三位に昇叙。左兵衛督如元。

貞和5年/正平4年(1349年)12月8日、出家。

文和元年/正平7年(1352年)2月26日、薨去。享年47。 法名:大休寺古山恵源

延文3年/正平13年(1358年)2月12日、贈従二位。

足利直冬

足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。室町幕府将軍足利尊氏の妾腹の子。

実父である足利尊氏に認知されず、幼少時は相模国鎌倉の東勝寺(神奈川県鎌倉市)において喝食となる。興国6年/貞和元年(1345年)頃に還俗して上洛、京都で玄恵法印に紹介され叔父の足利直義の養子となり、時期不明だが直義に一字を与えられて直冬と名乗る。その後も数年は父の尊氏との対面は許されずに認知されていなかったと言われる。正平3年/貞和4年(1348年)に初陣を行い、紀伊など各地で南朝勢力と戦い戦功をあげて帰還する。

室町幕府では将軍尊氏とともに二元政治を行っていた直義と、各地で軍事的功績のあった執事の高師直らとの対立が生じ、やがて内紛に発展して観応の擾乱に至る。古典『太平記』によれば、直義の猶子である直冬の凱旋に対して、足利家家中から冷ややかな視線が存在したと記されている。正平4年/貞和5年(1349年)に直義の提案で直冬は長門探題に任命され、4月に京都を出発する。[1]8月に師直のクーデターで直義が失脚し、直冬は上洛しようとするが、播磨の赤松則村(円心)に阻止される。直冬は中国地方において軍勢を催促するなどの態度を取ったため、将軍尊氏は直冬討伐令を下す。直冬は9月に鞆津(広島県福山市)で師直の兵に襲撃され、九州へ逃れる。

同月、肥後国河尻津(熊本県熊本市)から九州に上陸し、足利将軍家の権威を利用して国人勢力や阿蘇氏に所領を安堵するなどして足場を築く。直冬の九州落ちを知った幕府は直冬に出家と上洛を命じるが、直冬がこれに従わないと見るや再び討伐令を下す。九州には、征西将軍宮懐良親王を擁する南朝方の菊池氏や、足利方の九州探題で博多を本拠とした一色範氏(道猷)、大宰府の少弐頼尚らの勢力が鼎立していたところ、直冬は、将軍尊氏より直冬の討伐命令を受けた一色氏らと戦い、懐良親王の征西府と協調路線を取り大宰府攻略を目指す。

少弐頼尚は当初、一色氏と協調して直冬と戦っていたが、直冬の勢力が拡大すると一色氏への対抗心から正平5年/観応元年(1350年)9月に直冬を自陣営に迎える(一説によれば婿にしたと言われる)。勢力を拡大した直冬らは一色氏を博多から駆逐する。直冬と少弐氏との同調を受けて、幕府では尊氏自ら直冬のいる九州に出兵しようとするが、その最中に直義が京を脱出し、支持勢力を集めて南朝に帰順して挙兵したために中止される。正平6年/観応2年(1351年)2月、尊氏は直義勢に敗れて和議を結ぶが、高師直、師泰兄弟が直義方に殺害される。直義が政界に復帰し、直冬は3月に九州探題に任命される。

しかし、尊氏と直義の間で再び不和が生じ、同年に尊氏が南朝と一時的に講和する正平一統が成立し、尊氏は南朝の後村上天皇から直義討伐令を得る。直冬に対しても再び討伐令が下り、一色氏が征西府と協調して勢力を巻き返す。翌正平7年/文和元年(1352年)、鎌倉で直義は尊氏に降伏し、2月に急死する。正平一統は破綻するが、九州において孤立した直冬は中国地方へ逃れ、長門国豊田城に拠る。直冬は時期不明だが南朝に帰服し、旧直義派や、反尊氏勢力で南朝にも接近していた桃井直常、山名時氏、大内弘世らに後援され、正平9年/文和3年(1354年)にこれら反尊氏派の軍勢を率いて上洛し、翌正平10年/文和4年(1355年)に南朝と協力して京都から尊氏を追い、一時的に奪還する。しかし、尊氏方の反撃に遭ってすぐに撤退している。

正平13年/延文3年(1358年)年には尊氏が死去するが、南朝勢力も幕府の度重なる攻勢の前に衰微し、大内、山名らも幕府に降り、直冬党は瓦解する。正平21年/貞治6年(1366年)の書状を最後に直冬の消息は不明となる。一説には、石見に隠棲したとも言う。没年は足利系図では至徳4年7月2日(1387年8月16日)、系図纂要では応永7年3月11日(1400年4月5日)としている。

また、嘉吉元年(1441年)に6代将軍の足利義教を殺害し、播磨で挙兵した赤松満祐は、直冬の孫であるという義尊を擁立して戦っており、満祐の敗死に伴い義尊も討ち取られている。

2009年01月22日

戦略上の地雷

地雷は原則として(自分から飛んで行ったり)能動的に攻撃を行うものではない。その意味で、日本政府が標榜する「専守防衛」という戦術的観念には適合的である。しかし、陸上自衛隊は対人地雷禁止条約(後述)に従い、2003年2月までに処理訓練用のものを除く対人地雷を廃棄した。もっとも、遠隔操作のみで爆破可能な指向性散弾は条約の禁止する対人地雷に含まれないため、代用武器として使用している。

地雷による被害
地雷による被害は人間が足を失ったり死亡したりする直接的な人的被害と、地雷が埋まっているかもしれない土地が不動産価値を失ってしまう経済被害に大別できる。 たった一個の地雷が埋まっているかもしれないというだけでその土地を活用することが出来なくなり、その土地を通行することはおろか、農地や宅地として使用することが出来なくなってしまう。 通行できない土地が多くなると流通にも支障をきたし、外国資本だけでなく国内投資もその場所を避けるので多大な経済損害を受ける。

対戦車地雷(たいせんしゃじらい)は、主に戦車などの装甲戦闘車両を破壊する事を目的として使用される地雷である。

一般に、軍用車両は底部の装甲が最も薄いため、地雷による攻撃はかなり有効な手段となる。故に、5から10kg程度の火薬でトラックや装甲兵員輸送車等を十分に破壊することができ、軽戦車を横転させ、主力戦車に対しても履帯やサスペンションを破壊するなどの威力がある。

70kgから130kg以上の加重で起爆するようにされており、これは武器弾薬等を携帯した兵士が踏んでも起爆せず車両を攻撃する為である。磁気吸着式により、車両に吸着させるタイプや、有人管制により手動で起爆させるタイプもある。地雷除去を防ぎ、殺傷力を上げるために対人地雷とセットで埋設されることがある。人間が踏んでも起爆装置の中心点を踏めば起爆しないが少しでも中心点を外れた部分を踏めばテコの要領で起爆する重量に達してしまい起爆してしまう。そのため現在の陸上自衛隊での教育時にも対戦車地雷だからと言って踏んでも問題ないわけではないことを十分に教育している。

対戦車地雷に対抗する為には、車両の底部の装甲を厚くしたり、二重にする、車両床を高い位置にし爆風を逃がすV字型にする、装輪数を増やすなどの方法がある。

爆薬が不足している軍・武装勢力においては榴弾砲や迫撃砲の砲弾や航空爆弾を地面に埋め込み、対戦車地雷として利用した例がある。

第二次世界大戦中、旧日本軍の場合、兵士が地雷を背負って敵戦車の前に身投げしたり、タコツボ(一人用の壕)内で爆弾を抱えてうずくまり、敵の接近に合わせて信管を叩いて起爆させる「人間地雷」戦術を実行している。また、ソ連軍はエンジンをかけた自動車の下で餌を与えることにより、条件反射で自動車の下にもぐりこむように訓練した犬に爆薬をくくり付けてドイツ軍車両を破壊する地雷犬を実戦に投入している。さらに各国でも地雷を埋めておくのではなく、兵士が自陣を蹂躙する敵戦車の履帯前に投げ出す、棒の先に付けて突き出す、時限式信管を取り付け機関部やハッチ上に載せる等して破壊するという戦術も取られた。

パレスチナでは重装甲で知られるイスラエル国防軍のメルカバ Mk 3戦車を、遠隔操作により地中に埋めた手製の爆薬で、イラクでは対戦車地雷を積み重ねる事によりアメリカ軍のM1A2SEPエイブラムス戦車を、完全に撃破した。

現在使われる主な対人地雷(たいじんじらい)には、踏みつけた人間の足を踝(くるぶし)から吹き飛ばす程度の威力をもった小型のもの、容器が二重になっていてワイヤーや踏圧その他で信管が作動すると内側の容器が1-2m程度の高さに打ち上げられて爆発し、内部の鋼球などを撒き散らして周囲数十mの敵を倒すことを狙った大型のもの(跳躍地雷)、信管が作動すると扇状の範囲に鋼球を撒き散らして殺傷する地上設置型のものなどがある。

炸裂した時、一定の方向に扇形に散弾を発射する性質(指向性)を持った地雷(クレイモア地雷など)を指向性対人地雷、または指向性散弾といい、危害範囲が非常に広いのが特徴である。これは地中に埋設するのではなく、付属した簡易な三脚や四脚に載った形で地上に設置され、水平方向に散弾や弾片を射出する。また、張られたワイヤーに兵がひっかかることで作動するだけでなく、遠隔操作で任意のタイミングで炸裂させることもできる。これにより兵が密集していた場合、一度に10名以上が殺傷されることもある。

安価で数多く使われる小型のものは、敵兵を殺すことではなく、敵兵に重傷を負わせることにより戦闘不能にすることを目的としている。敵兵を1人戦死させれば、それは敵の兵力を1減らすことになる。しかし、敵兵1名に重傷を負わせれば、敵は重傷者を後送する兵・手当てする兵を確保せねばならず、前線の敵兵力を2名以上減らすことができる。
またこういった小型のものは空中投下して散布することが可能である。しかし正確な散布場所が分からなくなるので被害を出しやすい危険な方法である。広く流布した話に「小型地雷に子供の興味を引くぬいぐるみやおもちゃのようなものを取り付けてばら撒き、触れた子供の手足や生命を奪う」とするものがあるが事実として確認されていない[2]。

以上のように、対人地雷は敵味方・軍民を問わず被害を受ける危険があるため、厳格な運用が必要とされる。しかし紛争国では無計画に埋設された結果、除去困難に陥り戦後の紛争の後遺症として住民を苦しめ続ける例が見られる。そのため規制が議論されている。そのような観点からオタワ条約が発効した。ただ地雷に安全対策を施すのではなく、対人地雷そのものをなくそうという非現実的な内容だったため、主要な地雷輸出国が批准せず肝心の紛争地帯での地雷被害は減っていない。
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戦場に於ける地雷原の突破
戦場に於いて地雷原を突破する際には以下のような方法が取られる。

地雷処理用の専用機材を用いる
もっとも望ましい方法であり、前述の地雷処理戦車や地雷処理用の機材(地雷原処理用のロケット弾発射機等)を使用する。以前は、戦車の前方方向に伸びた機材で対戦車地雷を捜索し爆破するスネークが使用されたこともある。また地雷の探知に第二次世界大戦から使用され始めた金属探知機を用いる方法もあるが、これは木製地雷等の金属の使用量が極めて少ないものに対しては効果を発揮できない。
地雷原に銃砲撃を加える
砲兵部隊の支援が受けられるならば、地雷原に砲弾を撃ち込み地雷を誘爆させるという方法もある。これは砲兵でなくとも、進撃する戦車自身が搭載砲で道路を射撃することもある。また露出している地雷に対しては遠距離から対物ライフル等で銃撃を加えることで安全に処理する。現在は大型の狙撃銃として知名度の高いバレットM82も元々は爆破物処理機材としてスウェーデン軍に採用されたのが始まりである。その他にも、エル・アラメインの戦いで、悪魔の園と言われた二重三重に埋めてあるドイツ軍の対戦車地雷をイギリス軍が砲撃を加えて爆破処理した例もある。
歩兵の一般装備を用いて地雷を処理する
上記のような方法が取れないとき、歩兵がスコップやナイフを用いて地中を探り、地雷を除去(単にマーキングだけに留めることもある)する。地雷は一定以上の圧力が加わらないと爆発しないので、ナイフ等でコツコツ叩く程度では安全である。
ただし地雷の中には除去する人物をも対象にしたものがあるので注意が必要である。例えば信管が複数存在する地雷や、ある一定の角度以上に傾けると爆発する地雷がある。また、そんな機能を備えていなくとも地雷を二重に設置し、下の地雷の信管を上の地雷に結ぶ・箱型地雷の蓋の下やクレイモア地雷の足に手榴弾を仕掛けるなど、除去しようとした人間が地雷を持ち上げれば仕掛けが爆発する、無力化しようとする人間を標的とした一種のブービートラップも存在する。
非人道的な方法を用いる
上記のような「正攻法」ではなく、敵の捕虜や一般市民を背後から銃で脅し、部隊の先頭を歩かせるという方法がある。第二次世界大戦の東部戦線では独ソ両軍で見られた光景である。また人を使うのではなく動物を使う方法もあるが、こちらは成功しないことが多い(あらぬ方向に走っていく)。但しこれらの方法では重量の関係で対戦車地雷に対する効果は薄い。
無視する
悠長に地雷を処理していられる時間のない緊急時に於いては「踏んだら不運と諦めろ」という様に地雷の存在を無視して行動することもある。また、人命が軽視される、あるいはできうる体制下にあっては、「十個の地雷があっても、十一人の兵士がいれば必ず突破できる」という考え方がなされる場合もある。これは、ノルマンディー上陸作戦のオマハF地区での戦闘に例が見られる。

2009年01月15日

生薬学(しょうやくがく)

まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

生薬学(しょうやくがく)とは、生薬の生産や鑑定方法、品質評価、有効成分、薬理作用などを取り扱う薬学の分野。 日本では、天然資源から新しい化学構造を持つ医薬品を開発する天然物化学を中心に研究されてきたため、薬用資源学(やくようしげんがく)薬品資源学(やくひんしげんがく)と称されることもある。

日本において生薬学という学問上の名称が用いられたのは明治13年(1880年)からであり、東京医学校製薬学科の別課である通学生教場にて日本人教師が日本語で講義する必要性が生じたため、当時助教授であった大井玄洞がJ.W.Wingandの『Lehrbuch der Pharmakognosie』などの書籍を参考に教科書を作るあたり、ドイツ語の「Pharmakognosie」(これはギリシャ語のpharmakon(薬物)とgnosis(知識)からの造語)に「生薬学」の訳をあて、『生薬学』『生薬学図譜』を刊行したのものである。 その後、ドイツ留学から帰国した下山順一郎が明治20年(1887年)帝国大学生薬学講座の初代教授に就任し、生薬学の基礎を確立した[1]。

生薬は漢方薬や健康食品の原料として広く使用されているが、それら天然由来であるため品質が安定せず、本来の生薬学の目的はそれら品質管理方法の開発であった。そのため、古くは生薬の顕微鏡観察による検定方法、近年では含有化学成分による検定方法、ごく最近は遺伝子による検定方法が開発されてきている。それらの技術は、近年の漢方薬の普及や、健康食品ブームに大いに貢献している。

いっぽう、その過程で含有化学成分の分析方法の発展から、生薬中に含まれる未知の薬効成分を新しい医薬品として開発するという天然物化学が生薬学から発展し、日本だけでなくアメリカの薬学部における生薬学研究の主流を占めるようになった。実際、世界で使用される医薬品の多くは、そのような天然物またはその誘導体であり、今後も新しい医薬品が天然物から開発されることが期待される。

日本における生薬学は、漢方薬や健康食品の原料として使用される天然由来の動植物を研究対象に扱うことが多いが、アメリカにおける生薬学Pharmacognosyの対象は、天然物由来の医薬品すべてであり、多くの微生物由来の抗生物質や、インシュリンやインターフェロンなどの遺伝子組換え医薬品も生薬学の範囲である。